ニコ動とかに思うこと

権藤、権藤、雨、権藤のような怒涛のリリースラッシュと、サンドバッグよろしく殴り続けられる日々がようやくひと段落つき、早めに仕事を切り上げて何をやっているかといえばYou tubeやらニコ動やらでボーカロイドのコンテンツとかを、久しぶりにじっくり眺めてるわけです。


すると、どうでしょう。
「世界はどんどん良い方向にむかってるんじゃなかろうか」というようなおかしな感動を覚えてしまい、思わず泣いてしまいそうになるわけなんです。ええ、そうなんです。


たぶん感動するポイントは3個くらいあるんだと思う。


ひとつは作品のすばらしさ。オリジナルだったり既存曲だったり、アレンジだったりリミックスだったり、コラージュだったりコラボだったり、歌ってみたのだったり演奏してみたのだったり。
どれも気合が入った作りだし、下手なものはあっても手抜きされたものではない。おそらく相当な時間と手間をかけてやってるんだろうな〜、とわかるものばかり。


ふたつめは、過去の経緯。Youtubeにしろニコ動にしろ、「違法!」の温床として忌み嫌われていたのは出来たときからだけど(まあそれまでにも山ほどあったし今も山盛りだけどね)、ニコ動の場合さらにYoutubeにのっかっている動画を使ってコメントしてくような、いってみればフリーライドのような感じにとらえられて、なんだかんだで締め出し食らったようなときもあったわけで。けれど、いまやそこからの転載作品は山ほど。そこに海外からコメントつけられたりで、立派なコンテンツ供給元になっちゃった。


みっつめは、これが多分、一番自分のツボに入るんだけれど、「ああ、こんなにみんな、表現したかったんだ」ってこと。へなちょことはいえ、バンド組んで演奏とかしてた自分にとっては、「表現することができるのは、一握りの人たちの特権じゃない」ってことは分かってたはずだけど、やっぱりなんか、忘れてた。
そこらへんの誰でも、表現することはできるんだぜー、それってとっても、楽しいんだぜー、って。見てるとでかい声で、そう言ってくれてるよう気がしてくる。


子供の頃は知ってた。らくがき帳に、クレヨンでいっぱい絵を描いて、親に観てもらって、喜んで。
沖縄のばーちゃんたちも知ってた。きっつーい泡盛飲みながら、楽しそうに民謡うたいながら踊ってた。
でもどうして僕らは、このことを、いつもよく忘れてしまうんだろう?


19世紀のモンマルトルに、20世紀のニューヨークに、こんなにも表現者がいたか?世界をあげてのムーブメントじゃね?これはもう、投げ銭払ってビール飲んでる場合じゃないだろう。


さあみんな、楽器を手に取ろうぜ。ギターを取れ、ベースを取れ、弾けないならば歌えばいい。それもだめなら踊っとけ。
音楽じゃなくてもいい。ペンを、筆を、PCを、カメラを、声を。


そんなもの、すぐに手の届くところにあるじゃないか。